秋山真之終焉の地・山下亀三郎別邸
秋山が小田原で亡くなったということは意外と知られていないのでは?
ブログを検索しますと、何人かのファンの方が訪ねてやってきてくださっているようです。
ありがとうございます!
ですが、なかなか当時の名残がはっきりしないようなので、もう一度自分の記憶を確かめるべく、ちょっと歩いてきました。
秋山が亡くなったのは旧友・山下亀三郎の別邸・対潮閣。
図は山下別邸の周辺含め、この界隈の邸園マップです。
山下は現在、商船三井に統合されている旧・山下汽船の創業者です。旧海軍関係の兵員や輸送で財をなし、戦後の財閥解体では財閥家族の指定されるほどの資産家でした。
秋山と山下が知り合うきっかけは二説ありますが、秋山は松山、山下は宇和島と郷里も近く、かなり親しかったようです。
秋山は大正6年に盲腸を患いますが、それ以来、何度となく山下の別邸で療養していました。
小田原で休養している頃、親族に宛てた手紙には次のようにあります。
「日々の散歩にすこし歩き疲れ本日は小田原の別野に休息し読書三昧に日を暮らし候(略)
新聞も見ずに世外に遠かりて呑気に静養せば是程気楽で面白き事は無之どうか何時までも此の様にと思ひ居り候
大正6年7月26日」
小田原がよほどゆったりできる場所だったんでしょうね。
翌大正7年冬、秋山は小田原に山縣有朋を訪ね何事か相談していたところ、病状が急変して2月4日に対潮閣で亡くなりました。
「アゝ小田原の松籟濤音、永へに無韻の詩となれ、歌となれ」『秋山真之将軍』
「(秋山)将軍は二階の障子を全部開放たしめた。太陽の昇る前の相模灘の黎明が将軍には又とない爽やかなものに感ぜられたのであう(略)
遂に溘焉として逝去した。相模灘には太陽が漸く昇らんとして水平線上稍紅を呈してゐた。」『秋山真之』
絵になる情景ですね。
山下別邸はその後、分譲されてしまいました。しかし、今も当時の区画とちょうど重なるように、趣のある石垣が続いています。
名残はまったくないわけではないので、みなさんこの路地を歩いて、当時をしのんでくださいね。
また、石垣の途中には、巨大な石碑があります。
これも山下別邸時代の以下の石碑のことでしょうか。
「中段程に釣鐘の如き形したる捨石ありて、其傍に田中青山伯(注・小田原に別邸のあった伯爵田中光顕)の此石を詠じたる和歌一首を彫付けたる石碑ある」『東都茶会記』
やっぱりそうでした。
「小田原の金石文(一)」『小田原市立郷土文化館研究誌3』によると、
「釣鐘石」というものです。
もともと箱根路七名石の一として御塔坂にあったものを明治40年、山下別邸の最初の所有者(松下軍治)がここに持ってきたといいます。
ちなみに碑文は
「うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石 光顕」
とあるとのこと。
この『東都茶会記』をはじめ資料に残る山下別邸の様子などはまた御紹介したいものです。
今、色々と調べはじめたところなので、みなさんにもぜひ情報提供お願いします!
また、秋山も愛した「相模灘の黎明」は、山下別邸の上段にある登録有形文化財・清閑亭から、今もはっきりと臨めることでしょう。
清閑亭で「相模灘の黎明」を望む。2月4日の命日などに秋山を偲んで、みなさんで集まるのも一案かもしれません。
平井太郎 記